東京地方裁判所 昭和30年(ワ)9133号 判決 1959年10月06日
原告 長里清
被告 橋口景二
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し、金三十五万円を支払うべし。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、請求の原因として、かつ被告の抗弁に答えて、つぎのとおり述べた。
「原告は、教育問題研究所なる名称を使つて、昭和二十六年中、「民主主義教育事例訓話の事典」なる著述(編者というべきもの)をし、株式会社学芸図書出版社(以下学芸図書という)と契約して出版した。
しかるに、被告は、著作者である原告に無断で、右と全く同一内容の書物を、定価を三百五十円として、昭和二十八年五月一日一万部、昭和二十九年三月十日一万部出版した。
これは原告の前記著作権を故意に侵害する偽作行為である。
原告はこれを出版店で出版させることによつて定価の一割(普通の率)にあたる対価(普通印税という)を受けることができたはずである。しかるに、被告が勝手に右のとおり偽作行為をしたためにこれを受けることができなかつた。その額を被告が出版した二万部について計算すると、七十万円(三百五十円の一割にあたる三十五円に二万を乗じたもの)になる。これが被告の不法行為によつて原告の蒙つた損害の額である。
仮りに、右不法行為は被告が株式会社東京書院(以下東京書院という)の代表者としてやつたことであるとしても、それは同時に代表者である被告個人の行為ともなるのである。
よつて、原告は被告に対し、右七十万円のうち三十五万円の支払を求める。
教育問題研究所が学芸図書の編集部の名称であつたということは事実に反する。これは原告が昭和二十四年頃から研究のために使つていた名称である。原告は学芸図書の取締役ではあつたが、単なる編集部員ではなかつた。
「訓話の事典」の著作権の全部またはその一部である出版権が被告主張のように学芸図書に帰属したこと、学芸図書が「訓話の事典」をゾツキ本として被告主張の値段で市場に出していたことは否認する。
学芸図書と被告または東京書院との間にどういうことが行われたかは知らない。
原告の著述にかかる「訓話の事典」の発行者は早田真朗ではなく原告自身であつた。
著作権法一二条に関して被告の主張していることは誤つている。
前波仲子と被告との間に行われたことは知らない。被告は原告が「訓話の事典」の著作者であることを知つていた。仮りに知らなかつたとしても、その著作者が誰であるかを調査しなかつたのであるから、被告には少くとも過失があつた。
被告または東京書院が被告主張のとおり「訓話の事典」の出版によつて損をしたということは否認する。
かように述べ、立証として、甲第一ないし第四号証、第五号証の一、二、第六ないし第九号証を提出し、証人早田真朗、前波仲子の各証言、原被告各本人尋問の結果を援用し、「乙第三ないし第七号証が真正にできたかどうかは知らない。その他の乙号各証が真正にできたことは認める。」と述べた。
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する旨の判決を求め、つぎのとおり答弁した。
原告主張の事実はすべて否認する。
教育問題研究所は学芸図書の編集部のことである。この編集部には原告外数名の者が右会社から給料をもらつて仕事をしていた。右「訓話の事典」はこの編集部が作つたのであつて、右著述の著作権はできあがりと同時に右会社に譲渡された。
この「訓話の事典」の著述を被告が代表取締役をしている株式会社東京書院(略して東京書院)が出版したことはあるが、被告個人がこれを出版したことはない。東京書院が出版した部数は一万五千部である。この出版した書物に発行者橋口景二と表示してあるが、それは発行者株式会社東京書院代表者橋口景二とすべきを略称して右のとおりしたのである。
「訓話の事典」は東京書院が出版する前すでに、学芸図書が、ゾツキ本として、定価三百二十円のものを五十円ぐらいで市場に出していたから、その一部につき定価三百五十円の一割の印税を払う約でこれを出版しようとする者などあろうはずがなかつた。したがつて、右著述を勝手に出版されたことによつてその著作者(それが誰であろうと)が一部につき三百五十円の一割にあたる損害を蒙つたなどということはありえないことである。
仮りに、右著述の著作者が原告であつたとしても、原告はいわゆる原稿売り切りで右著述の出版権を学芸図書に譲渡し、右著述はいわゆる無検印(著作者に印税を払うことを要しないもの)の著作物となつていた。学芸図書はその出版権を紙型とともにさらに東京書院に譲渡し、東京書院はその出版権にもとづいてこれを出版したのである。
仮りに、右著作の出版権が学芸図書に帰属していなかつたとしても、原告の著述は変名著作物であり(編著、教育問題研究所とある)、学芸図書は右著作物の発行者早田真朗の承諾のもとに右出版権を東京書院に譲渡する契約をしたのであるから、著作権法一二条の趣旨からいつてやはり東京書院は右出版権を取得したわけである。
仮りにそうでないとしても、実名登録をしていない原告は、著作権者なりとおどり出て、本訴のような権利行使をすることはできない筋合である(右法一二条)。
仮りに以上述べたところが理由ないとしても、学芸図書の代理人として東京書院との間の右出版権譲渡契約の衝にあつた前波仲子(学芸図書の取締役)は、東京書院の代表者である被告に対し、教育問題研究所というのは学芸図書の編集部であり、これに対しては印税を払う必要がなく、右出版権は学芸図書に帰属していると説明し、譲渡証、学芸図書の代表取締役の委任状を渡したので、被告は前波のいうとおり信じた。そう信ずるについては過失がなかつたから、東京書院が原告の著作権を侵害したとしても、東京書院は前記出版によつて受けた利益の存する限度においてこれを原告に支払えば足りるのである(著作権法三三条)。しかるに、東京書院は右書物を定価よりはるかに低い代金で売り、五千部の売れ残りをつくり、この出版により損こそすれ利益を受けなかつたから、原告に対しては何も支払う必要がない。
そして以上述べたことは、すべて、東京書院でなく被告が前記「訓話の事典」を出版したものであるとしても、やはりいえることである。
かように述べ、立証として、乙第一号証の一ないし三、第二ないし第七号証を提出し、証人早田真朗、前波仲子、葛生勘一の各証言、被告本人尋問の結果を援用し、「甲第六及び第九号証が真正にできたかどうかは知らない。その他の甲号各証が真正にできたことは認める。甲第三、四号証、第七、八号証を援用する。」と述べた。
理由
甲第三、四号証、同第五号証の一、二(いずれも真正なものであることについて争いがない)と証人早田真朗の証言、原被告各本人の供述とを合せ考えると、原告が、教育問題研究所なる名称を使つて、昭和二十六年中、「民主主義教育事例訓話の事典」なる著述をし、学芸図書と契約して出版したことを認めることができる。
この点について、被告は、「教育問題研究所は学芸図書の編集部のことで、この編集部には原告外数名の者が右会社から給料をもらつて仕事をしており、右『訓話の事典』はこの編集部が作つたものであつて、右著述の著作権はでき上りと同時に右会社に譲渡された。」というが、この主張に合う証人前波仲子の証言は採用することができず、ほかに右主張事実を認め前認定をくつがえすことができるような証拠はない。
つぎに、乙第一号証の一、二(真正なものであることに争いがない)と被告人の供述とを合せ考えると、被告は昭和二十八年十一月頃右「訓話の事典」と同じ内容の書物を一万五千部印刷させ、そのうち一万二千部ほどを販売その他の方法で頒布したことを認めることができる。
被告は、「右一万五千部を印刷させ、そのうち一万二千部ほどを頒布した行為は被告個人がやつたことではなく、被告が代表取締役をしている株式会社東京書院がやつたことである。」というが、その事実を認め前認定をくつがえすことができるほどの証拠はない。
また、原告は、「被告は『訓話の事典』と同じ内容の書物を昭和二十八年五月一日一万部、昭和二十九年三月十日一万部出版した。」と主張する。その出版の時期の点については乙第一号証の二に同じ趣旨の記載があるが、被告本人の供述によると、これは事実に反するものであることが認められる。ほかに原告主張の右の事実を認めさせるような証拠はない。
被告のやつたことは、そのままでは、「訓話の事典」に対する原告の著作権を侵害したことになる。
被告は、「原告はいわゆる原稿売り切りで『訓話の事典』の出版権を学芸図書に譲渡し、右著述はいわゆる無検印(著作者に印税を払うことを要しないもの)の著作物となつていた。学芸図書はその出版権を紙型とともに東京書院または被告に譲渡した。」という。しかし、原告が「訓話の事典」の著作権の一部である出版権を学芸図書に譲渡したということは、証人前波仲子の証言をほかにしてはこれを認めることができる証拠がなく、右証言は採用することができない。してみると、学芸図書との間の譲渡契約によつて被告が右出版権を取得するいわれはない。
被告は、「仮りに『訓話の事典』の出版権が学芸図書に帰属していなかつたとしても、右著述は変名著作物であり(編著、教育問題研究所とある)、学芸図書は右著作物の発行者早田真朗の承諾のもとに右出版権を東京書院または被告に譲渡する契約をしたのであるから、著作権法一二条の趣旨からいつて、やはり東京書院または被告は右出版権を取得した。」と主張するが、著作権法一二条からはそんな結果は出てこない。右法一二条は変名著作物については、その発行者は著作権者に代つてその権利を保全することができることを規定しているに過ぎない。被告の右主張は理由がない。
なお、ついでながら、被告は、「右法一二条の趣旨からして、実名登録をしていない原告は、著作権者なりとおどり出て、本訴のような権利行使をすることはできない筋合である。」というが、右法一二条はそういう趣旨のものではない。著作権者である以上変名著作物につき実名登録をしていない場合においても著作権の行使をすることができることは、あまりにも当然のことである。被告の主張は採用することができない。
他人の著述につきその承諾をえることなく出版した者は、特別の事情なき限り、少くとも過失によりその他人の著作権を侵害したものと認めるのが相当である。
本件「訓話の事典」を出版するについて被告が原告の承諾をえなかつたことは、被告の明らかに争わないところである。
この点につき、被告は、「学芸図書の代理人として東京書院または被告との間の右出版権譲渡契約の衝にあたつた前波仲子(学芸図書の取締役)は、被告に対し、右著述に対しては印税を払う必要がなく、右出版権は学芸図書に帰属していると説明し、譲渡証、学芸図書の代表取締役の委任状を渡したので、被告は前波のいうとおりに信じた。そう信ずるについては過失がなかつた。」と主張する。
乙第四、五号証(証人前波仲子の証言によつて真正にできたと認められる)と証人前波仲子の証言、被告本人の供述とを合せ考えると、学芸図書の代理人である前波仲子は、被告と右出版権譲渡契約をするにあたり、被告に対し、被告のいうように説明し、譲渡証等を渡したので、被告は、前波のいうとおりに信じたことが認められる。しかし、被告本人の供述によると、同時に、被告は、右出版権譲受の契約をするにあたり、右著述の著作者が原告であることを知つていたにかかわらず、あえて原告に右出版権の所属につき問合せをすることをしなかつたことが認められる。
著作者にその著作の出版権の所属を問合せるがごときは、正に一挙足一投足の労である。それをしなかつた点において被告には少くとも過矢があつたといわなければならない。
被告は原告に対し、その著作権を侵害したことによる損害を賠償しなければならない。
よつてその損害の点について判断する。
証人早田真朗、原告本人の各供述を合せ考えると、つぎのとおり認めることができる。
原告は、「訓話の事典」の出版について、昭和二十六年中、学芸図書との間に、定価の一割の対価(いわゆる印税)を受ける契約をした。この書物ははじめなかなか好評で、学芸図書は昭和二十六年中初版を出してから昭和二十八年二月第六版を出すまで二万部ほどを定価一冊三百二十円で出版した。
かように認められる。
しかし、また、被告本人の供述によると、つぎの事実も認められる。
昭和二十八年十月頃、学芸図書が立ち行かなくなつて、学芸図書の出版した「訓話の事典」はゾツキ本として代金五十円ぐらいで市場に出た。被告が印刷した「訓話の事典」のうち三百部ほどは三百五十円の定価をつけて一冊二百七十円(月賦払い)で売れたが、その後は、さきに同じ本がゾツキ本として市場に出た関係もあつて、そう高く売れなくなつた。そこで被告は二千部ほどを一冊五十円で売り、一万部足らずをあるいは一冊四十円ぐらいで売つたり、あるいは他へ寄贈したりした。そして三千部余りは売れないままで被告の手もとに残つている。被告が右書物をつくるのには一冊につき七十円ぐらいかかつているので、被告はひともうけするつもりで「訓話の事典」を一万五千部印刷したものの、結局右出版によつて損失をこうむるに至つた。
かように認められ、証人早田真朗、原告本人の各供述のうち右認定に反する部分は採用することができない。
昭和二十八年頃は、道徳とか訓話とかいうことは、文部省は力をいれていたにかかわらず、学校の先生はじめ世の中一般は何となく軽く扱つていた時代である。昭和二十六、七年頃よく売れた「訓話の事典」が昭和二十八年下半期になつても同じ売れ行きを持続していたろうとみることは問題である。昭和二十八年十月頃これがゾツキ本として市場に出たというにおいては、なおさらである。ことに、前記のとおり、被告は昭和二十八年十一月頃「訓話の事典」を出版したことによつて損をしているのである。このような事情のもとで、被告が「訓話の事典」を出版しなかつたとすれば、原告は他の出版店で、被告の出版した部数と同じ部数だけを出版させて、定価三百五十円の一割にあたる印税を受けることができたであろうなどときめることは、はなはだ早計である。
結局、原告のいう損害額については(その一部についても)、証明がないことに帰する。
原告の請求は棄却をまぬがれない。訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 新村義広)